戦艦 大和 生き残り。 それでも日本人はまた戦艦「大和」をつくるだろう〜この国が抱える根本的な宿痾(三田紀房,戸高一成)

戦艦大和の日常生活

「丸」編集部編『究極の戦艦 大和』光人社、2007年8月。 46ノットを記録 、11月25日には連合艦隊司令長官が視察に訪れた。 アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが 、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である [ ]。 それに、日本は物量で英米に劣るため、英米海軍に負けない海軍力を維持するために、戦いは1対1で絶対負けないように攻撃力・速度重視、その代り航続力は犠牲にして、遠征はせずに日本近海で戦うという方針があったため、なおさら長期航行には向かない設計になっていました。 造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。 情報面でも薄気味が悪いものだったと思われます。

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「不沈艦だと信じていた」 戦艦大和の生還元乗組員、3月2日に大阪で「“最期”を語る講演」(1/3ページ)

大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。 第二次世界大戦開戦以降、海での戦いの要は航空機となっていたのです。 同年進水。 信じられないことに、幹部の士官は月1回は洋食のフルコースを楽しんでいたそうです。 余談ながら、「特攻」について。 司令部要員も次々と横倒しになった大和の右舷側から退艦したはずですが、司令塔部員の多くは横倒しになった大和の巨大な煙突に吸い込まれて生存者が少ない。

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戦艦大和の最期から71年 「お前は若い。頑張って生きろ」上官がくれた命

雑誌「丸」編集部『 写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦I』(光人社、1989年)• (昭和16年)10月18日、土佐沖で荒天(風速南西20m)の中で速力27. 武蔵もほぼ同じ程度の出撃回数でしたが、レイテ沖海戦もある意味成功確率の低い突撃作戦でした。 また、いくら最強といえど、大和は決して一隻だけで戦っていたわけではありません。 ほか『 証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』光人社、1995年。 海底調査 [ ] 戦闘詳報による大和の沈没地点は。 孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。 ちなみに海軍ではけっこう英語を使うので、カレーライスはそのままカレーライスと言います(陸軍は『香辛料色付き汁かけ飯』と呼んでいました)。

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5分でわかる戦艦大和!沈没した最後の戦い、生存者などをわかりやすく解説!

の前日だった。 艦隊全体では4044人が死んだ(人数には諸説ある)。 戦闘機も全機爆弾とを装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。 14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した。 修繕に使用された北側のドックは、2017年現在も稼働中である。

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常夏通信:番外編 戦艦「大和」沈没から75年 元乗員の人生を戦後も左右した「不沈艦」

「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。 右舷外側のスクリューは最後まで動いていた。 言わば、これらの作業は、今後の更なる調査のための基礎を確定したと言えるのである。 大和は、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画()では対46cm砲防御を施した軍艦であった。 :1941年(昭和16年)9月5日 -• 主砲発射に関わっていた自分が把握していないのだから、間違いない。 ところが私の知らないところで軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。

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上官がくれた命 戦艦「大和」生還兵の証言:時事ドットコム

黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。 沖縄を囲む米艦を蹴散らすどころか、その艦影を見ることすらできなかった。 このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる [ ]。 他、候補生退艦者のインタビュー収録。 翼なしの「大和」艦隊が、沖縄にたどり着く可能性は非常に低かった。

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